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平野(ひらの)は、大阪府平野区の地名。広義では平野区全体を指すが、ここではかつて環濠自治都市があった平野郷中心部とその周辺に限定して記述する。 本項ではかつて同地域に所在した東成郡平野郷町(ひらのごうちょう)についても述べる。 == 歴史・概要 == 町の周囲を取り囲んでいた濠の調査で、弥生時代後期の壺が出土しているが、遺構は発見されていない。 平安時代初め頃にこの地域の荒れ地を開墾したのが平野の始まりであるとされている。当地が坂上田村麻呂の子である坂上広野麻呂の領地・荘園であったことから、当初は「広野」と呼ばれ、後に訛って「平野」になったといわれている。 広野麻呂の荘園は、藤原氏を通じて宇治平等院へ寄進され、織田信長の直轄領となるまでの約500年間は宇治平等院の荘園であった。平等院が所有していた荘園は「平野庄」と呼ばれた。その他にも近辺に「杭全庄」「広野庄」という荘園も存在した。 それ以前から当地は難波京と斑鳩・平安京を結ぶ古代道路である「渋川道」(のちの竜田越奈良街道)が通っており、昔から交通の要所であった。後には中高野街道の起点にもなった。 中世以降、荘園の近辺に大念仏寺などの有力寺院が建立され、地元では末吉氏などの有力者が中心となり自治都市が形成されていった。 戦国時代末期には織田信長に脅されたため、荘園や町の周りに環濠を巡らせて襲撃に備えたが、結局は織田信長に屈服した。豊臣秀吉が天下統一を果たすと、町の有力商人は大坂・天王寺村へ移住させられ、環濠は埋めさせられた。これが後の大坂の役で徳川方に付く一因となり、その折りに平野に徳川家康の陣がもうけられた。 そのとき、末吉氏は平野地区の代官に任ぜられ、戦で荒れ果てた町の再整備を行った。環濠も再度掘り直された。そのころから『平野郷』と呼ばれるようになった。 平野郷の脇を流れる平野川に柏原舟が京橋と柏原の間を通うようになると、平野郷は船運と陸運の中継地となり、恩恵を受けるようになる。 近世の平野郷町は、摂津国住吉郡平野野堂町、平野流町、平野市町、平野背戸口町、平野西脇町、平野泥堂町、平野馬場町、今林村、新在家村、今在家村、中野村の7町4村で構成されていたが、1879年(明治12年)に4村は分離された。1883年(明治16年)には7町も分離され、平野郷町としての括りは一旦解かれることとなった。 太平洋戦争後、旧平野郷地域の周囲も宅地化されていき、その面影は少なくなっていった。環濠も埋め立てられ、杭全神社近辺に200m程度しか残っていない。大阪市によってHOPEゾーンに指定されており、地元では商店街を中心として平野の町並みや文化を残そうと様々な取り組みを行っている。 環濠内の郷町と、郷の外側とを通じる13の出入りの木戸口にはそれぞれ門が設けられ、そして各門の脇には地蔵堂が建てられた。その地蔵堂は今も残っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平野 (大阪市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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